003. 渡辺貞夫のアメリカ・ツアー・リポート

皆さんこんにちは。渡辺貞夫です。今回のアメリカ・ツアーの報告をしたいと思います。

話は遡りますが、1968年に初めてニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演して以来、僕の夢は、日本人だけのグループでのアメリカ・ツアー、そして僕の音楽で世界中を旅したい、という想いが今日まで続いています。

1970年、初めてモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演したのをきっかけに、ヨーロッパ、アメリカでのツアーを行い、それ以来何度も各国をツアーして来ました。

しかし、アメリカでは日本人グループでのツアーは数えるほどしかしていませんでした。

というのは、旅費の問題やアメリカのミュージシャン達との付き合いもあるからです。

でも今回、全日空のご好意で旅費のサポートを得る事が出来、久し振りで自分のオリジナル・グループでのツアーが実現しました。

今年の4月にはロサンゼルスでシンフォニー・オーケストラとの公演、一昨年はピーター・アースキン・トリオとの西海岸地方のツアーもありましたが、毎回リハーサル時間の足りなさもあって、全ステージをオリジナル曲でというのは難しい事です。

ですから、今回は気心の知れた仲間と、カッコ良くステージが出来るという期待感でいっぱいでした。

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Yosi’sでのサウンドチェックの模様

唯ひとつ、新メンバー、コモブチ・キイチロウのエレクトリック・ベースでの参加は初めての事もあり、出発前のリハーサルではそれが一番の心配の種で、不安な気持ちでした。

しかし、サンフランシスコの初日からメンバー皆の気迫が感じられ、グループは日毎に良くなっていき、結果はどの街も納得出来る好い演奏で、聴衆が楽しんでくれた事が実感出来ました。

サンフランシスコの3日目、最終ステージが終わった時にスタンディング・オベーションを受け嬉しかった。

その後どのクラブでも聴衆の満足感が感じられ、本当に良いツアーが出来ました。

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Yosi’sにて
メンバー、スタッフ、友人らと(中央がチーフ・シェフの神尾さん)

次に、旅のエピソードです。

サンフランシスコに着いた晩に、長嶺日本総領事のゴールデンゲイトを臨むお宅に招待され、ジミー荒木さんを知っていた古いジャズ・ファンの方に会う事が出来ました。

65年当時知り合った日系二世の友人達は、毎晩聴きに来てくれて旧交を温められました。

YOSHI’Sではチーフ・シェフの神尾さん達のステージ後の素晴らしい接待、僕の紹介で働いている友人の息子、竜平達の想いいっぱいの熱い歓迎、どれも嬉しく最後にはキッチンの上に乗せられて又サックスを吹いたり、皆で「ショーショローザ」や「ハランベ」を歌ったり、とうとうンジャセの「炭坑節」までと、良い思い出になりました。

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Yosi’sキッチンにて
南アフリカの代表曲の「SHOSHOLOZA」を歌い上げる貞夫さん

ロサンゼルスのカタリナは、前と違ってファンシーな店の作りになっていました。僕は前の方が好きだったんだけど・・。ここにも沢山の友人達が来てくれたのですが、ラッセル・フェランテ夫妻が来てくれたのが何よりも嬉しかった。

そしてサンディエゴでは、ゴルフ・パター作りの名人、スコッティ・キャメロン夫妻が来てくれたり、コモブチはお姉さんの家族が来て再会を喜んでいました。

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サンディエゴからメンバー達はワシントンDCへ、僕はボストンのバークリー・スクールの始業式に招待されて行って来ました。とても懐かしく、夜には昔の学校があったニューバリー・ストリートや住んでいたアパートの辺りを散歩しました。随分と様子が変わっていましたが、街の佇まいは残っているので、ちょっとセンチメンタル・ジャーニー。驚いたのは学校の生徒が4,000人、先生やスタッフが800人もいるという事です。僕が居た62年にはアパート2棟に300人位の生徒数でしたから、大きくなったものです。今はジャズだけでなくクラシックのオーケストラのクラスもあり、ビジネスなど音楽関係は何でも教えているようです。

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ワシントンDCの公演会場、Blues Alley

次の日ワシントンDCに戻り、その晩から2日間ジョージタウンのジャズ・アリーに出演。ここはコージーなクラブで僕の好きな街でもあり、やはり懐かしい気分になります。最初の晩、ケニヤのファンからのリクエストで「ハランベ」を皆で歌ったのですが、彼は僕の曲を沢山知っていて、終わってからのサイン会の間中僕の耳元で、僕の懐かしい曲を歌ってくれるのには嬉しいのと、忙しいのとで参りました。2日目の晩には藤崎日本大使ご夫妻が来て下さり、奥様手作りの美味しいキッシュでステージの後、懐かしのバーテンダーやメンバーと楽しい打ち上げでした。

ニューヨークではチャーネット・モフェットやオナージェを始め、沢山の懐かしいミュージシャン達が会いに来てくれて応対にてんてこ舞い。日本人では増尾ちゃんやプーも来てくれたし、ニューヨーク在住の多くの友人達とで、ステージは2ショーともSOLD OUT!

しかし街を楽しむ余裕は無かったです。

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ブルーノート・ニューヨークの玄関口

そして、ボストン、ケンブリッジのレガッタバーにはバークリーの校長夫妻を始め、タイガー大越や先生方、生徒達、そして僕の居た頃からのピアノの先生、レイ・サンティシが来てくれました。彼は僕と同じ1933年2月1日生まれなんです。当時何度も一緒に仕事をしたジョン・キャパベラ。彼は62年アメリカでの初めてのクリスマスに、彼の家に呼んでくれたんです。

演奏終了後、ボストン日本協会のピーターさんのオフィスで、お寿司とお酒で大歓迎を受けました。日本が好きな人達の集まりで30~40人位、もちろん日本人も招待されていましたが、ピーターさんを始め皆さん日本語が上手なので驚きました。

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ブルーノートのお店のウィンドウにNYタイムズの記事が貼られてました

忘れもしません。14年前レガッタバーで演奏していた時、僕のサックスの先生、ジョー・ビオラの隣の席に、ピーターさんと武満徹ご夫妻が座っているのを知って、当時のピアニスト、ケイ赤城が舞い上がったのを覚えています。その一年半後に武満さんが亡くなりましたから、僕は今でも武満さんが最後のお別れに来てくれたのだと思っています。

今回のツアーでは、メンバー皆が本当にタイトにまとまって良い演奏をしてくれました。

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ブルーノート楽屋にて

特に石川のドラミング・スティックワークがしなやかになり、アフタービートもたっぷりでゴキゲン。順のギター、晃のピアノは勿論ですが、ンジャセも聴衆を圧倒していたし、コモブチのベースもどっしりして良く歌ってくれました。このまま続けて世界中を廻りたい思いでいっぱいです。

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ブルーノート楽屋にて オナージェと

最後に、帰りの機内での不思議な出来事をお話しましょう。
実は今年の4月、親しくしているおばあちゃんのお見舞いで病院に行った際、隣の病室の患者さんが僕のファンで、長い生命では無いと知りました。

若い人だったので勇気づけて帰りましたが、その方の奥様が僕の席の担当スチュワーデスだったのです。

彼はお見舞いした4日後に亡くなったそうです。そして奥様の復帰後、最初のフライトで僕に会った事にお互い驚き、奥様は泣いて感謝してくれました。

これをシンクロニシティというのでしょうか?早く立ち直ってくれて本当に良かったです。

改めて、今回の旅では嬉しい出会いが沢山あったと感じます。空港で何度も靴を脱いだりという面倒もありましたが、グループの成果も十分有り、僕にとって本当に良い旅でした。

“今回、マネージングした舞ちゃんを始め、M&Mの関口、内田、そして貢子社長、皆ホントにホントにありがとう。これからもどうぞ宜しくお願い致します。   貞夫 ”

これで一応僕の報告は終わりです。また、いつか、どこかでお会いしましょう。
皆さんどうぞ元気で待っていて下さいね。

渡辺貞夫

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帰国日、ボストンの空港で